常識を疑うことの重要性


忠臣蔵は、大石内蔵助などを義士だとし、吉良氏を悪人であるとしています。しかしこのような「常識」は正しいのでしょうか。

客観的に見れば、大石らは、集団殺人・傷害事件の犯人にすぎません。赤穂事件を例にとり「常識」を疑うことの大切さを論じます。




1 プロローグ

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筆者:柳川行雄


(1)土地神話と専門家の常識

ア 専門家の常識

かつて、土地は値下がりしないという確固たる常識があった。土地の値段は下がらない。たとえ借金をしてでも土地を買っておけば、土地の値段は上がる一方で、カネ(貨幣)の価値が下がり借金の実質的な負担は将来的には減少すると誰もが信じていた。

しかし、今では、土地の値段は下がりつつあり、一方でカネの価値は下がらない。問題は、土地の価格が下がらないという神話は、それが存在していた当時には、その当時なりの十分な"根拠"があったのだろうかということだ。たんに"みんながそう言っている"ということにすぎなかったのではないのだろうか。

私は、かつてある専門家から「土地の値段は下がらない」と言われたことがある。そのとき、私はこう応えた。

「そうは言っても、将来、日本の人口は減るだろう。人口が減れば土地に対する需要も減るのではないか。そうなれば需要と供給の関係で価格も落ちるのではないか」

そのときの専門家の答えは、

「いいえ土地の価格というのは下がらないものなんです」

というものだった。

私には、この回答は、まったく納得できないものだった。これでは、なんの根拠も示されていない。無条件な信仰と同じである。しかし、その専門家にとっては私の疑問は、素人の疑問に過ぎなかったようだ。いずれにせよ、私は彼から納得できる根拠を聴くことはできなかった。

イ 素人の素朴な疑問

たぶん、今、彼に、あのときの会話について指摘し、現在の土地の価格低下の事実をぶつけてみれば「素人のまぐれ当たり」という回答が返ってくるだろう。当時としては、専門知識によって的確に判断していたのは自分であり、私の疑問は素人の素朴な疑問に過ぎなかったと言うに違いない。

だが、それは本当に素人のまぐれ当たりにすぎなかったのだろうか。将来的に、日本の人口が減ることは明らかなのだ。もちろん、減少した人口の割合を、補填できるほど人々が広い土地を欲しがるようになれば話は別である。

だが、若い労働者の正社員の比率は下がっており、非正社員の収入は大きくはない。少子化で、子供の数も減っているのだ。収入も少なく、子供の数も少ない中で、広い土地を購入したいという需要が増えるとは思えないのである。

彼の判断の根拠は、"みんながそう言っている"ということと、過去の価格の動きを将来に向けて外挿しただけ=別な言葉で表現すればこれまで下がらなかったのだからこれからも下がらないだろうというだけではなかったのか。


(2)地球温暖化と専門家

ア 納得できる根拠のない「専門知識」は疑え

私自身は、たとえ素人でも十分な調査・検討を行えば、専門家もどきよりも、よほど正確な判断が可能だと信じている。もちろん、本当の専門家は別だ。真の専門家の知識に対しては、敬意を表するべきである。私が言うのは、専門家もどきのことだ。

地球温暖化に関して、ある書籍=ネットではなく書籍だ=で、ある専門家と称する人物が、「温暖化で海水の表面が上がると主張している者がいるが、北極の氷が溶けても海面は上がらない。また、南極の氷が溶けて海面が上昇するなどということもない」と温暖化論に対して"反論"しているのを読んだことがある。

もちろん、温暖化を主張する科学者は、誰も「北極の氷が溶けて海面が上昇する」だの、「南極の氷が溶けて海面が上昇する」だのと主張してはいない。海面が上がるのは、海水が熱で膨張したり、山岳氷河が溶けたりするのが主な理由である。

さきほどの海面上昇説に"反論"する主張は、どう考えても納得できるようなものではないのである。

イ 地球温暖化と専門知識

地球温暖化に関しては、誰も、確認することができないことをいいことに、様々な専門家が様々な"根拠"でいろいろなことを言っている。こんなときには、双方の専門家の言うことを虚心坦懐に聞いて、どちらが納得できるかを自ら確認してみるしかない。

だが、いずれにせよ、ここ数十年で確かに気温は上昇しており、海面の上昇も続いている。異常な気象による災害も増えているようだ。それらについて、納得できるような根拠をもって解答を与えてくれる専門家の著述を信じるしかないだろう。


(3)大切なのは自分が納得できるか

子供の頃、教科書に奇妙な話が載っていた。ある国に王様がいて、日ごろから鹿狩を楽しんでいた。あるときこの王様は狩りに出て、一頭の子鹿を殺した。ところが、そこへ母鹿が現れて悲嘆にくれた。この王様は、それを見て、楽しみのために生き物を殺すことの罪深さを悟った・・・ところまでは良かったのだが、その後で国中に触れを出し、狩りをすることを禁止するのである。

そして、我々は感想文を書かされることとなった。子供が本嫌いになる大きな要因である感想文である。私は、こう書いた。

「王様は遊びで鹿を狩っていたのだから、それをやめるのは良いかもしれないが、生活のために狩猟をしていた人たちは大変だ。この王様はわがままだ。」

すると、担当教師から叱られた。

「母親の鹿の悲しみがお前には理解できないのか。お前は、心が冷たい子だ。お前以外の子はみんなが、この王様はよいことをしたと書いているんだよ」

今なら、子供相手にそんなことを言うあなたこそ冷たいと反論するところだが、当時はそこまで思いつかなかった。だが、我が家では肉などめったに食卓に上がらなかったが、この教師や他の子供たちの家庭はたぶんそうではなかったろう。こういうのをご都合主義というのである。

なお、この感想文の話を私が信頼していた他の先生にしたところ、逆に褒められた。

「そういう他と違う考え方や、別な見方をすることは大切だよ」

そう、深く考えずに、大勢と同じ考え方をすることは、どのような社会においても大きなリスクとなるのである。


2 赤穂事件とはなんだったのか

(1)赤穂事件の概要

我が国で有名な歴史上の事件である赤穂事件の真の姿については、ほとんど知られていないと言ってよい。広く知られているのは、"忠臣蔵"という創作の方である。これは史実の赤穂事件とは全く異なるものである。まずは、このことを明確にしておこう。

一言でいえば、赤穂事件とは、1702年12月に、旧赤穂藩の元藩士のグループが、幕府高官の吉良上野介義央の居宅を集団で襲撃し、詰めていた武士45名を死傷させたうえ、さらに吉良義央を殺害したという、徳川綱吉施政下で起きた大量殺戮事件なのである。

この事件の契機は、前年の3月殿中松の廊下で旧赤穂藩の藩主浅野内匠頭長矩が、吉良義央に切りかかった松の廊下事件である。このとき、吉良義央は反撃しなかったが、浅野長矩は梶川与惣兵衛らによって取り押さえられた。

事件が発生した後の将軍綱吉の事件処理は迅速であった。その日のうちに浅野長矩に切腹を命じたのである。また、浅野家は断絶、藩は取り潰しとなった。現代の感覚から言えば厳しいようだが、当時の法体系の下では、それほど異常とは言えない措置といえるであろう。

浅野長矩がなぜ吉良義央に襲いかかったのかは判っていない。浅野長矩は、理由を明らかにしないまま切腹した。吉良義央も、取り調べに対して理由に心当たりはないと話している。

要するに、松の廊下の事件について客観的にみれば、浅野長矩が一方的に違法行為をしたのに対し、吉良義央はなんの落ち度もない被害者にすぎないのである。

ところが、浅野家の家臣団は、ここで奇妙な理屈を立てる。まず、喧嘩は両成敗のはずなのに、浅野長矩だけが処罰されて、吉良義央がお咎めなしなのはおかしいと考える。そして、そこからいきなり論理を飛躍して、吉良義央を主君浅野長矩の仇だとするのだ。

そして、このような不思議な理由で、大量殺人事件という重大な犯罪行為を行うのである。


(2)赤穂事件の問題点

ア なぜ浅野長矩は吉良義央を襲ったのか

(ア)落ち度は浅野長矩の側にあった

すでに述べたように、松の廊下事件においても、赤穂事件においても、浅野家の側は、一方的に違法行為を行った加害者である。吉良義央はなんの落ち度もない被害者にすぎない。

後に作られた忠臣蔵では、浅野家側の仇討ちという設定にするために、吉良義央が浅野家側に対して、嫌がらせをしたことにしている。しかし、これはすべて"でっちあげ"である。我が国史上、最も有名なフェイクニュースというべきものなのである。

忠臣蔵では、吉良義央が、浅野家側が賄賂を寄こさなかったことに腹を立てて嫌がらせをしたことにしている。実を言えば、浅野長矩が吉良義央に対して、適切な謝礼を支払わなかったというのは、明確な事実である。適切な金額を支払うべきところを、地元の名産物を渡してお茶を濁すという非常識なことをしたのだ。

しかし、これは浅野家が吉良家に対して礼を失しているのであり、落ち度は浅野家の側にある。これは、主君を諫めなかった当時の家臣にも問題があろう。吉良義央は、浅野長矩よりも経済力(禄高)でははるかに劣るが、家柄の格は高いのである。それが、軽く見られた形になったのだ。

もちろん、吉良義央の側にしてみれば、面白くはなかったろうし、非常識で礼儀を知らないやつと思った可能性はある。ことによると、吉良義央の態度に表れた可能性はある。しかし、浅野家の側がまず非常識な行動をとったのであるから、多少のことがあったとしても非難されるようなことではないだろう。

(イ)吉良義央の指導に問題があったか

では、浅野長矩が勅使饗応役の指導について、吉良義央が手抜きをするようなことをしたかであるが、多くの歴史家はこれについて疑問視している。まず、このような嫌がらせが行われたとする歴史的に信用のおける記録が残っていないのである。

この点について、襲撃後に逃走したとされる寺坂の私記や、秋田藩の家老岡本元朝の日記、元加賀藩士杉本義鄰の「赤穂鍾秀記」などに、例えば増上寺の畳表の交換が必要なことを吉良義央が浅野長矩に教えなかったことなどについての記述があるとの指摘がある。しかし、寺坂は襲撃に加わった当事者であり、その証言は客観性に欠ける。また、岡本は噂話を日記に記したに過ぎず、杉本もとくに根拠を示さず憶測として記しているだけである。そこから判明するのは、当時、そのような噂があったというだけであり、それ以上ではない。いずれも信頼するに足りるようなものではないのだ。

もちろん、だからと言って嫌がらせをしなかったという証拠があるわけではない。しかし、二代目竹田出雲らの仮名手本忠臣蔵の作家たちが、幕府にさえ分からなかった赤穂事件の真実に迫れたとは考えにくい。この時代には、この種の重大な事件については、幕府側によって綿密な調査が行われている。記録上に明確な証拠がまったくないということは、なかったと考えるのが自然なのである。

では、状況証拠はどうかということになるが、そもそも浅野長矩が勅使饗応役で問題を起こせば、指導役の吉良義央自身が、将軍から咎められる恐れがあるのである。常識で考えて、そのようなことをするはずがない。

さらに、忠臣蔵では語られていないが、浅野長矩が勅使饗応役を命じられたのは初めてではない。事件の18年前の17歳の時にも勅使饗応役を務めており、このときは問題なく役目を終えている。そして、このときの指導役も、事件の時と同じ吉良義央だったのである。

すなわち、17歳のときの経験とはいえ、全くの素人ではないのである。しかも、家臣団には当時の経験者が残っていただろうし、記録も残っていたであろう。忠臣蔵に描かれているような"嫌がらせ"をしたところで、さしたる意味はなかったはずである。

このように考えると、吉良義央はこの事件に関して、忠臣蔵に書かれているような指導役としての問題は起こしていないと考えるのが自然なのである。

(ウ)ではなぜ松の廊下事件が起きたのか

繰り返しになるが、浅野長矩が松の廊下事件を引き起こした理由については、確たることは分かっていない。塩の生産に関する両藩の確執や、かねてからの個人的な遺恨、その他さまざまな説が取りざたされている。しかし、いずれについても有力な否定説があり、納得できるものではない。

唯一、納得できるものがあるとすれば、浅野長矩の精神的な疾患が、勅使饗応役のストレスで増悪し、それによって事件を引き起こしたというものである。

当時の元禄時代は、武士が簡単に刀を抜いたりするような時代ではなかった。しかも場所は殿中で、勅使が来城しているのである。私的な乱闘事件を起こせば、藩は取り潰しにあい、家族や家臣など一族郎党が路頭に迷うことは分かったはずである。それにもかかわらず、あえてこのような事件を引き起こすのであるから、浅野長矩が精神的な疾患を有していたということは、十分に納得できるのである。

仮に精神的な疾患がなかったにせよ、浅野長矩が幼児的な性格の持ち主であったことは間違いないであろう。

おそらくは、彼の精神的又は性格的な問題が勅使饗応役のストレスで爆発したと考えるのが最も妥当ではなかろうか。

イ 元赤穂藩家臣の言い分は正当か

先述したように、襲撃を行った赤穂藩の家臣団は、吉良義央を主君の仇としているが、これは筋違いというものであろう。浅野長矩はさしたる理由もなく、吉良義央を襲っているのである。吉良義央は反撃をしていないし、浅野長矩を傷つけたりはしていないのであるから、仇などになるわけがない。

浅野長矩に切腹を命じたのは、あくまでも幕府(綱吉)の判断である。吉良家に対して相談した結果でそうしたというわけではない。仇というなら、それは綱吉個人か、幕府そのものであって吉良義央ではありえない。

赤穂家臣団の言い分は、喧嘩は両成敗のはずなのに、吉良義央がお咎めなしなのはおかしいということだが、仮にそれがおかしいとしても、それは綱吉の裁定である。そのことによって吉良義央が仇になるというのは論理的ではない。

要は、赤穂家臣団は、浅野長矩が起こした松の廊下事件を完成させようとしたにすぎないのである。言い換えれば、浅野長矩の違法な吉良義央に対する攻撃の完成である。遺恨晴らしではあるかもしれないが、敵討などではない。

むしろ、よく指摘されるように敵討を遂げたということを就職活動に利用しようとしたという説の方が納得しやすいのである。

ウ 吉良義央に咎めがなかったのはなぜか

吉良義央に咎めがなかったのは、彼はたんなる被害者だからにすぎない。喧嘩は両成敗というが、喧嘩ではなく、たんなる被害者なので、咎めがなかったということである。

もっとも、後述するように、松の廊下事件で反撃せずに逃げたことについて、赤穂事件の後になってから「卑怯のふるまい」だと言いがかりをつけて、幕府は吉良家を廃絶させている。世論が、赤穂家臣団に同情的だったために、幕府の面目を保つために吉良家を処分したのであろう。ご都合主義というべきか。


(3)幕府の卑劣な対応

ア 藩の取り潰しと幕府財政

この事件については、幕府の卑劣な対応が目に付く。松の廊下事件で赤穂藩を取り潰したのは、事件の重大性からやむを得ない面もあるが、大名の取り潰しは、実を言えば幕府の財政改善のための効果的な手段でもあったのである。

関ヶ原の決戦後、親徳川家の各藩の財力と軍事力は、外様大名の各藩の財政と軍事力を合わせたよりも明らかに劣っていた。そのため徳川家は、政権の地盤を固める手段として、各大名が反乱を起こさない程度にその財力を衰えさせる方策をとった。よく言われるように参勤交代や各種工事の普請を行わせたのもそのひとつであるし、本件の原因となった勅使の供応役もそのひとつであろう。

だが、それよりも幕府にとってうまみがあるのは、個々の藩の取り潰しである。藩を取り潰して、天領(幕府直轄領)とすれば、税収は幕府に直接入るようになる。そのため、幕府は様々な理由をつけて多くの大名の取り潰しを行っている。

ただ、天領の税率は、藩政による税率よりもかなり低く設定していたため、領民には歓迎されたようである。これは赤穂藩でも事情は同じで、領民たちは取り潰しを喜んだようだ。

イ 吉良家に対する幕府の対応

吉良家に対する元赤穂藩士の襲撃について、幕府は見て見ぬふりをした、というよりも襲撃を幇助したと考えられる節がある。そのひとつが吉良義央の邸宅の移転である。吉良家は、松の廊下事件の後で、大名屋敷などが多い呉服橋の屋敷を取り上げられ、本所松坂町へ移り住むことを余儀なくされる。

当時の松坂町は新興地であるが、それまで住んでいた呉服橋は大名屋敷などが多く治安のよい場所である。襲撃者にとってはこの移転は都合が良かった。

また、47名(46名という説もある)もの武装した部隊が幕府の旗本の邸宅へ襲撃をしたのである。犯罪者たちは、計画段階で様々な準備活動を行ったであろう。これを幕府の治安組織が事前に察知できなかったというのは不思議である。

また、仮に事前に察知できなかったとしても、襲撃をされているときにも、幕府は吉良邸へ治安部隊を派遣することをしていない。実際に事件が起きた後で、治安部隊を派遣しなかったのは、見て見ぬふりをしたとしか思えない。

さらに、先述したように、赤穂事件の後になって、吉良義央が松の廊下事件で逃げたのは「卑怯」だの、赤穂事件で「未練」のふるまいがあっただの、家臣が主君を賊徒の襲撃から守れなかったのは不届きだのと、いいがかりとしか思えない理由をつけて、吉良家もまた断絶させてしまうのである。

これは、財政改善というよりも、先述したように、世論が浅野家に同情的だったために、吉良家を犠牲にして人気取りを図ったということのようだ。世論が吉良義央悪役説というフェイクニュースにおどらされて、そのために、なんの落ち度もない吉良家が幕府によって断絶させられてしまったのである。浅野家の襲撃に加わらなかった一般の家臣や、吉良家の家臣にしわ寄せがいっただけのことである。


3 最後に

(1)赤穂事件の本質

赤穂事件は、最近では法学者や歴史学者の間では、吉良義央の名誉回復が進んでいるようである。どう考えても、この一連の事件は、浅野長矩という性格的に幼稚な人物が、千代田城内の松の廊下で引き起こした傷害(あるいは殺人未遂)事件と、その家臣が引き起こした住居不法侵入、殺人、傷害という、犯罪事件にすぎないのである。

そして、それが幕府によって巧みに利用されたのである。その一方で世間は、これを敵討に仕立て上げ、犯罪者の集団を忠義に準じた義士だとして楽しんでいた。まさに正義感に酔いしれて、フェイクニュースを発進し、面白がって浅野家の犯罪行為を称賛し、結果的には幕府の卑劣な行為に手を貸したのである。

しかし、赤穂事件などは、常識を疑って、客観的に事実関係を冷静に見れば何が正しいことかは分かるはずである。吉良義央の行った"嫌がらせ"などには、根拠のないでっち上げにすぎない。その証拠として挙げられている文献などは、いずれも憶測や伝聞が記載されているにすぎないのだ。


(2)現代に学ぶ赤穂事件

だが、これを過去に起きた"暗愚な君主と愚かな世論が生んだ悲劇"などと考えるべきではない。残念ながら、現在でもこのような悲劇は起きる可能性はある。一例を挙げれば、下山事件はいまだに、一部に他殺説が信じられている。どこにも他殺の根拠などないにもかかわらずである。

その危険性は、過去の事件ばかりではない。専門家もどきの"常識"に惑わされていると、手ひどい目に遭うことになりかねない。それを避けるためには、冷静で客観的にものを見る目を備えておかなければならない。

そのためには、以下のようなことが重要となろう。

  • ① なにごとにも、結論だけを求めるのではなく、根拠は何かと考える習慣をつけること
  • ② 常に、相手に立場や少数者の立場など、様々な立場に立って考える習慣をつけること
  • ③ "専門家"の言うことをそのまま信じるのではなく、納得できるまで自ら考えること

(3)結論だけではなく根拠が何かを考えること

ア 理系の物の見方とは

私はいわゆる「理系」の人間であるが、学生時代は塾で子供たちに理科を教えることがあった。教えていると、この子は伸びるとか、この子は伸びないと分かるものだ。そして、ほとんどの場合それは合っていた。

伸びる子というのは、そのときの成績とは直接は関係がない。考える子なのである。教科書の内容や公式について、その"意味"を考えようとするのだ。彼らは、公式など覚えはしない。しかし、意味が分かっているので、試験中に考えれば導き出すことができるのである。

そのため、塾の授業でも、理解できるように根拠を教えると「わかりやすい」と言って喜ぶ。こういう子は、模試の成績は悪かったりするが、難関校に受かってしまう。難関校の試験問題は、考える力があれば受かるようになっているからだ。

これに対し、伸びない子は、考えようとしない。教科書の内容を覚えようとするのである。公式を丸暗記して、解き方だけを覚えようとする。だから根拠を教えようとすると「わかりにくい」という。結論と解き方だけを教えると「わかった」と言ってよろこぶのである。だが、結論だけ教えて分かるはずがない。残念なことにこういう子は模試の成績が良くても難関校には受からない。たいてい後に落ちこぼれてしまう。

イ 根拠について考えること

要は、結果だけを見て物事を判断するのではなく、その根拠は何か、それは納得できることなのかを常に考えることが必要なのである。

赤穂事件も、「みんなが赤穂浪士は義士だと言っている」ではなく、その根拠を考えることである。繰り返し述べたことだが、客観的に事実だけを見れば、松の廊下事件は傷害事件か殺人未遂事件なのである。また、赤穂事件は集団殺人事件なのだ。悪いのは犯人側であって、被害者ではないのである。

松の廊下の事件後に、世論が浅野長矩に同情的で、吉良義央に批判的だったのは、やはり吉良義央は問題のある人物だったのではないかという考え方がある。しかし、私はそのような考え方には与しない。世論は無責任に面白がっていただけということもあり得るからだ。

かつて、五・一五事件や二・二六事件が発生したとき、国民は犯人側に同情的で、被害者が悪役にされてしまった。高橋是清の遺族など、近所を出歩くことさえ憚られるようになったという。一時的な世論など、あてになるものではない。ある種のグループの思惑に踊らされているだけという可能性もあるのだ。

犯罪者を義士として被害者を批判するようなことが正しいことであるはずがない。犯罪行為の被害者が社会的に抑圧され、加害者が称賛されるような社会は何かが歪んでいるのだ。


(4)常に相手の立場や少数者の立場に立って考えること

ア 殺された警護の侍の立場になってみよう

赤穂事件についても、吉良家の立場になって考えてみれば、赤穂浪士の犯罪性は明確になる。赤穂浪士は吉良家に討ち入り、そこに詰めていた警護の侍を虐殺している。これは五・一五事件や二・二六事件の叛徒たちも、警護の警官たちを虐殺したのは同じである。

では、彼らは殺されなければならないようなことをしたのであろうか。吉良義央の警護に当たっていたのだから、殺される覚悟はしていたはずだなどというのは暴論である。警官や自衛官は殺されるのが仕事だといっているようなものである。そんなばかなことがあるはずがない。

かれらは主君を守ろうとし、あるいは職務を忠実に果たして殺されたのである。

史実ではないが、映画「大忠臣蔵」(松竹1957年)に至っては、大石主税の居宅を見張っていた吉良家の家臣2名を、主税の婚約者の父親(梶川与惣兵衛ということになっている)が斬殺する場面がある。大石たちは吉良家襲撃の予備行為を行っていたのであるから、その居宅を吉良家の家臣が見張っていたのは正当な行為であろう。これがいきなり殺害されたのであるから、殺された側になってみれば、いわれなき殺人ということになろう。

イ 被害者を批判する宗教家

最近でも、死刑囚を人格者のように持ち上げる一方で、殺人事件の被害者の遺族を「殺したがるバカ」と言い放った宗教家がいる。死刑制度に賛成か反対かはそれぞれの考え方である。しかし、加害者を人格者のようにいい、被害者の遺族を貶めるというのは如何なものであろうか。

この人物は、おそらく自らが見ているものだけしか見えていないのである。死刑囚などに面会して、交流を図っている中で、その時点だけの死刑囚を見て「人格者だ」などと思っているのであろう。この人物は、被害者の遺族の立場に立って考えることができないのである。その悲しみや怒りが理解できないのだ。


(5)最後に

最後になるが、なにごとにつけ、納得できるまで自らの力で考えるようにすることこそが、現代社会で生きるために必要な力であると強調して本稿を終えたい。