天皇の政治利用と民主主義


宮内庁長官の「天皇が五輪による新型コロナ感染拡大を懸念している」との発言が波紋を呼んでいます。発言の趣旨そのものは、問題がないように思えるかもしれません。

しかし、このような発言が一定の支持を受け、その一方で政治的な問題とされることには、我が国の民主主義の脆弱さを感じさせます。その問題点を考えます。




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1 宮内庁長官が「天皇が懸念と拝察」と発言

執筆日時:

筆者:平児


(1)宮内庁長官の発言​

西村泰彦宮内庁長官は、6月24日の定例会見で、五輪の開催が新型コロナの感染拡大につながらないかについて天皇が懸念していると拝察しているという趣旨の発言をした(※)。この発言による「天皇の懸念」は、五輪開催を批判する側からはおおむね好意的に受け入れられる一方で、天皇による政治的発言に強い懸念が示された。私もまた、強い懸念を感じている側である。

※ 朝日新聞2021年6月24日「『陛下は開催で感染拡大しないか懸念と拝察』宮内庁長官」など。

五輪による新型コロナ感染拡大は、国会でも議論になっており、野党側が政権を追及する政治争点のひとつになっている(※)のである。どちらの立場での発言かということではなく、政治問題化していることに対して、政治的な発言をするべきでない天皇の考えが側近によって「拝察」という形で国内に拡がるということ、それ自体が大きな問題なのである。

※ 当サイトの記事「精神主義で五輪開催の危険」に国会論戦の一部を紹介している。

このような国内の意見が分かれて政治問題化している内容に関し、しかも五輪開催という事実上の「国事に関する行為」(※)についての発言を天皇の懸念として宮内庁が独立して行うことは、憲法上も重大な問題を内包している。

※ 天皇はが行う国事行為は日本国憲法第3条」によって「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要」とされ、また、同第7条により可能な国事行為は厳格に限定されている。

だからこそ、宮内庁長官は、この発言は天皇が行ったものではなく、長官が拝察したものであると強調したのであろう。だが、行政の側が政治的な意見を天皇の意思を「拝察」したものという形で公表すること自体が大きな問題と言うべきである。


(2)天皇の懸念発言の問題点​

今回の天皇の懸念発言の内容は、政権を批判する側の立場に立っており、菅政権としてはまさに否定したい内容である。事実、菅総理や加藤官房長官は、これを宮内庁長官自身の考えであると主張した(※)

※ 朝日新聞2021年6月25日「「拝察」発言めぐり、菅首相「宮内庁長官の見解と理解」」、同2021年6月25日「陛下の懸念は「宮内庁長官自身の考え」 加藤官房長官」など。

この政府側の発言は、一部で批判的に報じられたが、宮内庁長官自身が、天皇の発言ではなく自らが「拝察」したと述べているのであるから、ある意味で事実関係を述べただけとも言える。

この宮内庁長官の発言に対して、マスコミはあまり大きくは報じなかったがSNSでは大きな話題となった。いわゆるリベラルでも天皇に対して親近感を有している人たちはおり、そのような人たちは概ね好意的に受け入れたようである。一方、法律家は概してこの問題に懸念を表明しているようにみえる。


(3)なぜこのような発言がなされたのか​

今回の宮内庁長官の発言は、いわゆる「愛される皇室」づくりの一環としてなされたものであろう。もちろん、天皇自身に発言の責任を負わせることはできないので「拝察」という言葉を用いたのであろう。

開戦の詔勅に「豈朕が志ならむや」と挿入したのは、対米戦争が悲惨なものとなったときに天皇に国民の批判が向かないようにという配慮だったようだが、今回も本質はこれと同じであろう。五輪の開会宣言は、過去の五輪では天皇が行っており、今回も調整中であるとされている(※)。宮内庁長官は、五輪によって感染が拡大した場合に、開会の宣言をした天皇に国民の批判が向くことを危惧したのではないだろうか。

※ 朝日新聞2021年6月8日「天皇陛下の五輪開会宣言 官房長官、明言避け『調整中』」など。なお、川西秀哉「天皇とオリンピック 天皇は開会式で開会宣言を読みあげるのか?」参照


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2 宮内庁長官発言の問題点​

(1)政治問題化している内容について天皇の意志が伝えられること

そもそも、天皇が五輪によって感染が拡大することを懸念したからといって、そのこと自体は批判されるべきことではない。繰り返すが、問題は政治問題化していることについて、天皇が発言をして、それが現実の政治に影響を与えるような事態になることである。

宮内庁長官は、五輪開催が感染者の増加を引き起こすか否かについて政治問題化していることは承知しているだろう。その上で、このような発言をすれば、五輪反対の人々の一部が、天皇の発言を理由にして、五輪を遂行しようとしてる政権を批判することがあり得ることを予想し得たはずである。

すなわち、天皇の意志が政治的な力となる、一つのきっかけとなることを期待していたのではないだろうか。さらに言えば、その天皇の「意志」を宮内庁が発信し得ることを試そうとしていた可能性さえあるのだ。

幸い、野党や大手マスコミの大勢は、この手には載らなかったようであるが。


(2)正しいことであっても、天皇の意志によって政治が動いてはならない​

平児も、五輪の開催によって感染の拡大が起きることは危惧しているし、五輪は中止するべきだと考えている。従って、天皇の意思(厳密には宮内庁長官が「拝察」したと称する意志)は間違いではないと思う。

しかし、正しいことだからといって、天皇の意志(ないし側近が天皇の意志だと主張すること)によって、政治が動いてはならない。

教育勅語を「正しいことも言っている」などと言って復活させた連中がいる。しかし、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ」ということは、誤りではないのかもしれないが、天皇にそれを言わせてはならないのである。家族や友人のことは、国民一人一人が決めるべきことなのだ。

なお、教育勅語の本質は「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」にあることは言うまでもない。国の戦争のために命を懸けて戦えと言っているのである。

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軽い気持ちで、「天皇が言っているから、政府は対応するべきだ」などと主張してはならない。そのような行為に慣れてしまえば、それは民主主義の破壊につながるのである。


(3)一部野党のあきれた発言​

時事通信(※)が伝えたところによると、立憲民主党の安住淳国対委員長は「西村長官は警視総監も務め、軽々しく物を言う人ではない。個人の意見だと思っている国民は誰もいない。謙虚に言葉の重みを踏まえて対応すべきだ」と指摘したとされる。

※ 時事通信2021年6月26日「『五輪で陛下懸念』波紋広がる 政府、沈静化図る」による。

事実とすれば、最大野党の国対委員長の発言として、軽率の批判を免れないだろう。まさに、自らの主張に天皇の「権威」を利用しようとしているわけで、天皇の政治利用と言われても反論できないのではないか。五輪に反対するのは結構だが、天皇の意思に政府が「対応すべき」と主張するのは如何なものだろうか。

宮内庁長官の手に載って、天皇の政治的な権威を引き上げ、民主主義を破壊しようとする術中にはまってはならない。


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3 天皇の政治的権威を利用することは民主主義の破壊である

なぜ、五輪に反対するのか。それは、五輪によって感染が拡大して国民の生命・健康に重大な影響を及ぼす恐れがあるからであり、主権者である国民が反対しているからであり、さらには諸外国に感染を広げないためである。

そして、民主主義の政府なら、五輪の開催を強行するべきではないからである。天皇が懸念を表明しているからではない。天皇は、政治的な問題に口を出すべきではないし、それによって政治が動いてはならないのである。それは、良いことであっても悪しきことであっても、同じことなのだ。天皇はあくまでも象徴であって、それ以上であってはならないのである。