過労自殺を揶揄する発言


長谷川秀夫教授が、過労自殺した方に対して「100時間程度の残業で過労死するとは情けない」とツイートして炎上しています。

学者として、過労自殺に対するあまりにも無知・無理解が感じられます。また、亡くなった方や遺族に対する配慮に欠けた行為と言えます。

しかしながら、一方で、学者の発言に対する処分には慎重さも求められるでしょう。




1 事件の概要

執筆日時:

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筆者:柳川


また、某大手広告企業で働いていた新入社員が自殺したケース(※1)が配信されたタイミングで、某大学の教授が"月当たり残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない"とSNSで発言して(※2)ネットで批判を浴びた例がある(※3)。本人は、ビジネスマンとしての心構えを訴えたかったのかもしれないが、状況が状況だけに不適切と言われてもやむを得ないものであろう。

※1 労災として認定されている。

※2 この発言は現在では閲覧できない。おそらく削除されたのであろう。

※3 2016年10月12日日本経済新聞「『残業で自殺、情けない』 過労死で教授が不適切投稿」など

この事件は、その後、この大学教授が"お詫び"をSNSに載せたが結局はそれも削除した。さらに、所属する大学がこの教授の発言についてのお詫びと、この教授の処分を検討していると大学のサイトに掲示するという奇妙な経緯をたどっている。


2 問題点

(1)時間外労働が100時間とは限らない

この新入社員の名誉のために注記しておくが、一般論としては、裁判所の判決文やその他の機関が認定した時間外労働時間が100時間だったからといって、実際に100時間しか時間外労働をしていなかったとは限らないのである。認定する側としては、不法行為や安全配慮義務違反かどうか、あるいは業務起因性があるかどうかさえ判ればよいのである。そのため、迅速な判断のために、確実に認定できる労働時間だけで判断できるのであれば、その労働時間だけで判断してしまうことがあるのだ。

また、これも一般論だが、長時間労働を行っている企業の多くが不払い残業も行っており、36協定を超える部分については、賃金も払わず働いた証拠も残さないようにしているケースが多いのである。そのため、実際の労働時間を正確に知ることはきわめて困難なのが実態なのである。裁判で超過勤務が100時間と認定されたケースでも、実際は200時間以上だったというケースさえあるのではないかという印象を私は持っている。

この新入社員のTwitterによると、"22時前に帰れるのは奇跡だ"、"今から退社する(午前3時55分)"、"1日に20時間会社にいる"などの趣旨の発言がある。個人のTwitterとはいえ、本名と顔写真を出してのものである。事実である可能性が高いと思えるし、この種の発言は民事訴訟では、十分に証拠になるのである。100時間程度の残業時間ではなかったと考える方が自然ではなかろうか。


(2)追いつめられて自殺した方に対して冷酷である

また、具体的なケースがない時点で、一般論として発言するならともかく(※)、実際に、長時間労働に追いつめられて亡くなった方がいるときにこのような発言をすることはあまりにも冷酷に過ぎよう。

※ それにしても不適切であるが。

亡くなった方のご遺族の心情を想えば、このような発言はするべきではない。人間的な配慮を欠く発言と言うべきである。


(3)大学が処分すべきこととも思えない

しかしながら、大学側が「教授の処分を検討している」と朝日新聞が報じたことにも違和感を受けざるを得ない。なお、大学の学長名の公表文には「事実関係を調査の上で然るべき対応をとります」とあり、「処分を検討」とは書かれていない。処分云々については朝日新聞の記者が大学側からインタヴューをしたものであろう。

私は、この教授の発言を、適切だとも思っていないし、まして擁護するつもりもさらさらない。しかし、学問・言論の府であるべき大学において、言論を理由に教授を処分するなどということは、慎重の上にも慎重を期すべきであろう。少なくとも、この教授は、今回の過労自殺事案の被害者を名指しているわけではないのである。

教授の発言が、名誉毀損や侮辱罪に該当する違法なものだというならともかく、不適切だからという理由で処分をするべきではない。不適切だという理由で、発言を理由に処分を受けるなら、大学において、言論の自由を確保することは不可能となるだろう。不適切な発言だと思うなら、言論で対抗すればよい。処分権を持つ大学当局がしゃしゃり出る筋合いではないのである。

少なくとも、なんらかの権力を持つ者が、言論について、何が適切で何が不適切かを判断して、自らが不適切と考えた言論に対して、法的な処分などをするなどということは許されるべきことではない。例外的に許されるのは、裁判所が、法的な争いについての判断のために、限定的かつ必要最小限の判断をする場合、又は、政党などの思想・信条によって集まった社団において、その社団内部での処分をする場合などに限られるべきだ。大学当局が、教員の発言について、適切か不適切かを判断するなどということは、してはならないのである。

そのように考えないと、「私は市民の立場に立っているのだから正しい。私に逆らう者は解雇してもよい」「この戦争目的は正しい。この戦争に反対する者は投獄されてもしかるべきだ」などということも許されることになってしまう。行きつく先は、"焚書坑儒"やファシズムである。


3 まとめ

繰り返すが、この大学教授の発言が、どこまで事情を調べたうえでのものなのかは分からないが、一般論としての発言であればともかく、具体的な事件についてのものとしてはやはり適切さを欠くというべきである。

だからといって、不適切な発言によって、発言者が処分されたり、インターネット上で人格が否定されたりといったことにつながるなら、行きつく先は"自由と民主主義の死"だと知るべきだ。

"不適切な"発言をする自由も、不適切な発言を(建設的に)批判する自由も、束縛されてはならないのである。何が不適切かを、権力を持つ者が決めることなど許されることではないのである。