知覧特攻平和会館に想う



2 特別攻撃隊の本質とは何か(続き)


(3)国民を守ることは戦争をやめればできた

ア 戦争をやめれば国民は守れた

(ア)戦争を美化する映画

そもそも、特攻の本質は、国家が侵略戦争遂行のために国民の生命を犠牲にしたことにある。これを美化し、あの戦争が侵略戦争であることを糊塗することは、再び我が国を戦争の惨禍に巻き込むことに繋がるのである。

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元東京都知事の石原慎太郎氏は「俺は、君のためにこそ死ににいく」を書き、特攻隊員を美化して、国民の愛国心を煽ろうとしている。しかし、国民を守るというなら、政府は、特攻などに頼るのではなく降伏して戦争を止めるべきだったのである。

 これは後に映画化されたが、その映画で用いられた戦闘機の模型が知覧平和公園に展示されている。

なお、この小説を書いた石原氏は、重度身体障碍者に対して「人格あるのかね」と言ったり、水俣病患者に対して「IQが低い」と言い放った人物である(2017年3月19日BusinessJournal「石原慎太郎が差別発言『(障害者に)人格あるのかね』『(水俣病患者の文書に)IQ低い』」による)。

この小説は、こういう人物によって書かれたのだということは理解しておいた方がよい。

(イ)家族の自殺まで美化する平和会館

知覧特攻平和会館には、特攻隊員の後顧の憂いをなくすため、軍人の夫人が子供を道ずれに入水したという話が美談として紹介されている。それによると、ある陸軍の職員が特攻を志願したがパイロットとしての経験がないことなどを理由にいったん却下されたが、家族の入水の後に、事情が事情だからとして認められたのだという。この話が夫人の自己犠牲という“美談”に仕立て上げられているのだ。

しかし、このことからも分かるように、特攻とは愛する者を守るためではなく、“国のため”に死なせるための制度だったのである。このような事例を美談として紹介するところに、知覧特攻平和会館の本質がよく現れているといえよう。

イ それでも戦争を止めなかった

特攻に頼らざるを得なくなった時点では、もう誰の目にも戦争は負けると分かっていたのである。

そして、降伏しさえすれば国民は救えたのだ。1945年8月15日に日本は敗北し、少なくない軍人が戦犯として処刑されたことは事実であるが、連合軍は日本人を絶滅しようなどとはしなかったことからも、そのことは明確である。

特攻に頼ろうなどと考えずに降伏していれば、1945年2月の東京大空襲もなく、同年4月から6月までの沖縄戦の悲劇はなく、同年8月の広島・長崎の被害もなく、多くの国民の生命が救われたのである。

ウ それでも戦争を止めなかった理由は何か

負けると分かっていながら、効果の少ない特攻に頼ってまで戦争を継続した理由は何だろうか。それは、天皇制の維持のためだったのである。

日本政府と昭和天皇は、もう一度大きな戦果を上げて、有利な条件=天皇制の維持=で降伏しようとしていたのである。特攻は、まさにそのための捨て石に過ぎなかった。政府と昭和天皇にとって、国民の生命など「鴻毛の軽さ」でしかなかったのである。

 1945年2月に近衛が上奏文を天皇に上げて早期講和を提言したが、天皇は「もう一度戦果をあげてからでないと中々話は難しいと思う」としてこれを拒否した。沖縄で米軍に対して耐えられない打撃を与えることにより、有利な条件で講和して自らの地位と命を守ろうとしたのであろう。(鈴木多聞「『終戦』の政治史」(東京大学出版会2011年)による)

そして1945年8月9日になって、ようやく天皇の判断で戦争を終結することになる。その理由は、これ以上戦争を続けていたら3種の神器が米国に奪われるからというものだった。国民の生命など歯牙にもかけない昭和天皇も、3種の神器が失われることには耐えられなかったようだ。

 公表はよく知られているように6日後の15日であった。この6日間にも多くの特攻隊員が死亡している。また、当時としては第3の原爆が落とされることも考えられたのである。結果的には、(少なくとも公式には)米軍は3発しか製造しておらず、1発は実験に使用されたので、手持ちの原爆はなかったのではあるが。

なお、有馬哲生氏によれば、天皇が終戦を決意したのはスイスにおける和平工作によって、アメリカが天皇制を維持する意志を持っていることを確認したためであるとされる(有馬哲生「『スイス諜報網』の日米終戦工作」(新潮社2015年)による)

エ 特攻をめぐるフェイク

それでも特攻を美談にしたい人々は、特攻によって闘う意思を示したからこそ、アメリカは戦後の占領政策で日本に敬意を表したのだと主張している。特攻がなければ、日本の分割統治もあり得たのだというのだ。

だが、これは極めてばかげた主張である。特攻のような攻撃を行ったことは、連合国側の態度を硬化させこそすれ、軟化させることなどあり得なかった※1。繰り返しになるが、降伏すべきときに徹底して抗戦したからこそ、東京空襲による10万人の死亡、沖縄戦の惨禍、広島・長崎の21万人の死亡などが発生したのである。ポツダム宣言を受けた時でさえ、これを受け入れていれば広島・長崎の惨劇はなかったのである※2

※1 アメリカの世論は、真珠湾へのだまし討ち、バターン死の行進に激怒していた。また、南京における10万から20万の市民に対する殺害に悲憤していた。さらに沖縄では米軍の死傷者は49,133名(死者・行方不明12,520人)に達した。特攻が占領政策を軟化させることなどあり得ないというべきである。

※2 安倍元総理は総理就任前の2005年、「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えたあと、『どうだ』とばかりに叩きつけたものです」(「Voice」2005年7月号(PHP研究所))と書いている。もちろん、よく知られているように実際はポツダム宣言の方が広島・長崎の悲劇よりも早いのである。

故意に嘘をついたのか、知らなかったのかは分からないが、活字になっていることさえこのありさまでは、安倍元総理のいうことは信用できないと言ってよいだろう。「云々」を「でんでん」と読むような人物ではしようがないのだろうか。

また、日本の分割統治について米軍が密かに研究していたのは事実である。しかし、その危険性は日本が徹底して抗戦した場合にこそ存在した。

仮に日本が1945年8月に降伏せず、米軍が九州に上陸した後、特攻の被害に悩んで、ソ連に対して北海道への上陸を要請したらどうなっていただろうか。日本が制海権を失っていた状況下では、ソ連軍は北海道から東北の一部まで占領していた可能性があろう。そうなれば日本が2つに分割されることもあり得たのである

 欧州戦線で、ドイツが分割統治されたにもかかわらずイタリアが分割統治されなかったのは、イタリアがドイツより早く降伏し、新たに成立したバドリオ政権がドイツに対して宣戦布告をしたからである。最後は同盟国となって闘ったのでイタリアは徹底した統治を免れたのだ。

一方のドイツは最後まで抵抗して英米軍とソ連軍によって解放されたため、米英軍とソ連軍それぞれによって解放された地域が分割統治される結果となったのである。

客観的に見れば、特攻が戦後の日本の平和の礎になったなどということはないのである。それはたんに天皇の自己保身のための手段に過ぎなかったのだ。